はい、続き。
合唱をやっていたら、宗教曲は避けて通れない。
それは、宗教曲が今日のいわゆる「合唱」と呼ばれている音楽の起源だからだ。調べると合唱の歴史自体は長く、言語と同じくらいの歴史があると言ってもよさそうだ。しかし、今日のように「楽譜」という形で歌い方を定める「演奏曲」としての合唱の起源はやはり教会音楽だろう。幾重にも重なる美しい和声は、教会での音響を意識して作られたに違いない。
細々ながら合唱を続けて今年で14年目になる私も、宗教曲は今までに幾度もうたってきた。
一番最初に出会った宗教曲は、中学のときにちょっとだけ練習したByrdのKyrie eleisonだったと思う。中学時代には合唱という形では歌わなかったはずだが、なんて美しいハーモニーだろう、いつか合唱してみたい、と思っていた。(最近Kyrieとそれ以外のByrdのミサ曲も合唱団で歌う機会があり、感無量だった。)
センシティブな話題なのであまり触れたくはないが、私自身は無神論者に限りなく近いアニミズム信者とでも言っておこうか。昔熱心なキリスト教信者の元恋人(インドネシア人)に宣教され信仰のことで揉めて散々なことになったことと、過激無神論者を夫に持っていることとで、高校まで少しでも持っていた私の宗教心とキリスト教に対する興味はほとんどどこかに消えてしまった。大学を卒業してしばらくは、宗教曲をかなり避けていたと思う。
それと、大人になって「うたを歌う」ことの元々の意味を考えたとき、私が出した答えは「伝えたいことを、相手がわかる言語で、音に乗せて伝える」だったので、外国語の曲を歌うことにすごく消極的だった時期があった。また、留学先で外国語曲を歌った時に、外国語で歌うというのはつくづく大変だと実感したことや、帰国後合唱には「ことばを音に乗せて伝える」という機能があることを忘れて、びっくりするほどヘタな発音で外国語を歌う自己満合唱人を何度も見たことも影響して、外国語曲を日本で歌うことには今でもあまり積極的ではない。
とは言え、5月に歌う曲もほとんどが宗教曲だ。そして全て外国語である。
宗教心は持ち合わせていなくても、美しいものは美しいと感じる。Byrdもそうだし、今回歌う曲もそうだし、全ての宗教音楽に感じることは、宗教音楽は、宗教から生まれた美しい芸術であるということ。
母から生まれた子が時を経ていつかひとりだちするように、科学が発達した今この時代、宗教音楽も宗教から独立したひとつの芸術とみなしてもいいのではないか。
そう考えられるようになってから、美しい芸術作品を一つでも多く伝えられたらいいな、と思えるようになり、宗教曲や外国語曲も変に歪まず歌えるようになった。
つまり、私が宗教曲を歌うとき、もちろんその曲が伝えようとする、神を称えることばや神に感謝することばを理解しないわけではないが、それらの一字一句を観客に伝えようとはしない。
外国語の歌詞から読み取る宗教的なメッセージは自分の中にしまっておいて、「宗教曲」としての美しさだけを観客に伝える。それが良いか悪いかと言われればどちらかわからないが、歌い手も観客も大半は熱心なキリスト教信者ではない日本においては、それでもいいのではないかと個人的には思っている。
ただ、そう思い始めてから宗教曲を観客の前で歌うのは今回が初めてなので、どうなるかはわからない。本番後も、忘れなければ、自分が何を思ったかを書き留めておきたい。
最後に、私が今まで歌った中で一番美しい!と思っている宗教曲のご紹介。
ことばの意味はわからなくても、芸術作品としてのこの美しさはきっと誰にでも伝わるだろう。