私の卒業した小学校には、体育館の横に、
近くにそびえる山に、きりりとした眼差しを向ける騎馬像があって、
その騎馬像が立つ小さな丘?の横に
(子どもの私から見たら)大きくて立派な金木犀が立っていました。
今はどうなってるんだろう?切られちゃったんだっけ。
低学年とか、まだ身体がちっちゃかった頃は、
よくその金木犀の木の下に潜り込んで遊びました。
何して遊んだかはよく覚えてないけど…
きっとお砂遊びとか、お花遊びとかだったと思う。
体育館と騎馬像の間の細い小径では、
男友達と、タンポポの根っこをどこまで切らずに採れるか、ひたすら土を掘ったりとか。
女友達と、芝生にお水をあげて、逆に芝生をダメにしたりとか。
そんな田舎丸出しの、外の世界のことなんて全く無知で、
日本の真ん中の、ある小さな温泉町の、その中でも温泉で栄えることのなかったさらに小さい村の中の、ひとつの集落の一家に生まれた
ごくごく平凡なガキ大将だったなぁ、私。
小学校が改築されるまえ、プールの横に、なぜか男子トイレだけ開かずの扉になって封鎖されてるアブナい屋外トイレがあって、
その横にこれまたアブナい感じの二宮金次郎像があって、
その辺に銀木犀がありました。
二宮金次郎は勤勉、よき児童・よき生徒のシンボルとして多くの学校に像がありますが
私はそんなアブナい彼の像をほぼ毎日見て育ったので、
小学校時代は「勤勉」とはほど遠い餓鬼でした。
宿題、面倒だからやらなくて、
計算ドリルの宿題とか、一年で通算100回くらいやらないことがあったっけ。w
女の子のくせに(男女差別になるかな?)、身だしなみも何も気にせず…
さすがに爪は切ってたけど、よき児童とは言い難い餓鬼だったなぁ。
クソ餓鬼といわれるほどひどくもなかったけど。
金木犀の花は黄色がかったオレンジ色で(私から見たら)
とてもいい香りがするんだけど(これも私の感性で言うと)
銀木犀の花は白くて、そんなに濃厚な香りはしなかったと思う。
♪ここにいても、いいって~
いつ誰に 言われたのでも ないの~にね~
ここにこうして~ 私は居るよ~♪
ここに、居てもいいのかな?
ここに、こうして私は居るけど、
金木犀の花を見たり、香りを感じたり
みんなと喋ったりしているけれど、
ここに、居てもいいのかな?
…不思議だね。こうして、いろいろ考えて、いてもいいなんてね。
楽ではないけど、面白い。
今はまだ、コロコロしていよう。
きっとまだ、一つの場所に落ち着かなくてもいいんだ。
中学生だったあの頃は、もっと違うことを、もっと具体的に想像して歌っていたと思う。
でも。今は、この曲は、
自分に正直に、自然に生きていくことって、素晴らしい。
そんなことを伝える曲なんじゃないかな、と思います。
きっときっと、いつ何時もそれができるわけじゃないけど。
今年から住んでるところから、学校へ行くのに自転車で10分くらいかかるんだけど
ここのところ毎朝、素敵な金木犀の香りと一緒に登校しています。
今日は9時から授業なのに8時40分に起きてびっくりしたけど…
でも頑張って登校してる。自分が決めたことだから。
もう私は、ガキ大将をやっていた、保育園児じゃない。
もう私は、自然と戯れていただけの、田舎の小学生じゃない。
もう私は、一人前の大人になっているべき時期に来てる。
いつも登校する時に、「こうしていよう」っていう、中学の合唱部で歌った曲を思い出すんです。
青春の一ページだからね。
そして今日、『哀しい予感』を読んで。
何かとても寂しいものを感じた。
ああ、私の感性が変わった。いいほうにも、悪いほうにも。
経験をしているのとしていないのでは、感じ方は絶対的に異なる。
経験を通して考え方が変われば、それはなおさら。
あれだけ井の中の蛙で、
山のことと川のこと以外は(!)何にも知識がなくて、
気がちっちゃくてシャイでおとなしかった(?)元ガキ大将が
こ~んなところまで来てしまった。
精神的にも、肉体的にも、環境的にも、学問的にも。
成長したんだか、衰退したんだか。
この先、私はどこまで行くんだろうな。
きっと、ここにはとどまらないだろうな。
そんな予感がする。
肉体的にも、精神的にも。
そして、学問も、もしかしたらそうかもしれない。
そして、環境も、もしかしたらそうかもしれない。
私は、私が愛してやまない私の生まれ故郷に、戻らないかもしれない。
そんな気がするんだ。
あの日金木犀の木の下で棒倒しをして遊んでいた私のように
今私に起こっていることすべてが、
過ぎ去った瞬間に思い出に変わる。記憶として心に残る。
人生は、前へ前へ進んでいく。
人生は、決して過去へは戻らない。
だから、過去ばかりを振り返り、それを懐かしんでばかりいる自分がもどかしい。
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